配位イオンとの静電相互作用により縮退が解けた遷移金属の不飽和殻においては、フント則に従うスピン配置(高スピン、HS)や、逆に上下スピンの対を多く作ってスピン多重度を小さくするスピン配置(低スピン、LS)、またその中間の軌道占有パターンとして中間スピン(IS)状態など、一般的に複数の電子収納のパターンが可能である。近年、実際のマントル内部の圧力下における鉱物中の鉄のスピン状態の変化が、その場X線発光分光測定法などにより観測されるようになった。我々のグループでは、このいわゆるスピン転移について、主に理論的な立場、特に第一原理電子状態計算法による転移メカニズムの解明と物性予測を行っている。まずフェロペリクレース(Mg,Fe)Oのスピン転移を調べたが、そのために一電子近似の枠を超えて電子間相互作用の強い系を表現するLDA+U法をベースに、同一原子内電子間の遮蔽された相互作用(U)をポテンシャル変化に対する軌道占有数の線形応答から非経験的に決定する新たな方法を、はじめてマントル物質に適用した(Tsuchiya
et al., 2006)。その結果「8面体配位において、HSとLSの二状態のエネルギー差は熱エネルギーと同程度である」こと、また「IS状態はどの圧力でも安定化しない」ことが明らかとなり、地球深部のような高温においてHSとLSが混在する混合スピン(MS)という第3のスピン状態の出現を提唱した。その後多くの実験が試みられ昨年にはこのMS状態の存在が検証されている(Lin
et al., 2007)。
MS状態に対しては、密度、元素分配、電気伝導率の変化などで興味深い現象が期待されるが、弾性特性は中でも地球科学的に重要でかつ物質科学的に大変興味深い問題で現在世界的に大きく注目されている。高温でMS状態を経由してスピン転移が生じる場合連続的に体積が減少するので、HS→MS→LSへスピン状態が変化する過程を単一の系の圧縮とみなせばMS状態はHS状態やLS状態に比べ大きな圧縮率(すなわち小さな体積弾性率)を持つように見える(Lin
and Tsuchiya, 2008)。ごく最近、驚くべきことに実際にMS状態において体積弾性率の軟化が測定された(Crowhurst
et al., 2008)。しかしHSからより体積弾性率の大きいLS状態に遷移する過程でむしろ「ソフトな状態」が現れるというのは一見すると奇妙でもある。弾性軟化は本当に物理的に合理的な現象なのか。合理的な現象だとすればどのようなメカニズムで生じるのか。また体積弾性率に異常が現れるならば剛性率に対してはどうであろうか。これらの問いに答えるべく、我々はMS状態の応力応答を次のような方法で調べた。原子のサイズが高圧で不連続的に変化するような系の動的性質をすべて第一原理的に直接取り扱うのは計算規模から困難である。そこである原子間距離を境に原子サイズが不連続的に変化するような性質を持つモデルポテンシャルを作成して、古典分子動力学計算を行い、MS状態を再現した(動的スピン揺らぎモデル)。フックの法則に基づき応力−歪関係から弾性定数を算出したところ、実験結果に対応するように弾性定数テンソルの対角成分にはっきりと弾性軟化が現れた。歪が加わることによってスピン状態が変化し応力が緩和されるというのがその定性的な理由である。一方、非対角成分にはそのような異常は見られなかった。これはせん断歪が原子間距離を大きくは変化させず、そのため歪が個々の原子のスピン転移をドライブしないことによる。得られた弾性定数テンソルを平均化し体積弾性率を求め、圧縮曲線から求められるものと比較した結果、両者はエラーの範囲内で一致した。どうやらMS状態の体積弾性率は圧縮曲線から求められるもので正しいようである。一方剛性率にも弾性軟化が現れたが、異常の大きさは体積弾性率ほどではない。
このシミュレーションは原子間モデルポテンシャルを用いた定性的なものであるが、同様の結果が鉄含有鉱物の高温スピン転移においても期待できる。だとすると、下部マントル内部で生じる鉄のスピン転移によるフェロペリクレースやペロヴスカイトの弾性軟化は、観測でも検知されているべきである。例えばいくつかの地域では、下部マントル中上部において地震波速度異常の存在が確認されている(e.g.,
Kawakatsu and Niu, 1994; Kaneshima and Helffrich, 1999)。これまで我々はそれらについてSiO2のポスト・スティショバイト転移に伴う弾性軟化と結び付け、下部マントルへの海洋地殻物質混入の証拠として議論してきた。しかし、それらの速度異常は本当はむしろスピン転移に起因するものかもしれない。現在のところ観測地域がそう多くないので詳細の議論は難しいが、全地球的な規模で観測が行われればよりはっきりとしたことが分かるだろう。弾性異常はMS状態の圧力範囲が狭いほど、またスピン転移に伴う体積変化が大きいほど顕著となるので、実際の鉱物における異常の程度を正確に決定することが重要である。(土屋卓久)